戸塚学 on 黒井千次『高く手を振る日』(新潮文庫)
黒井千次
『高く手を振る日』(新潮文庫)
Reviewed by 戸塚学
バイト先で黒井千次に料理をサービスしたことがある。『春の道標』や『群棲』の作家という認識で、現在進行形の作家という気はしなかったが、新幹線乗車用に手に取った本書で認識を改めた。黒井が『働くということ』という「仕事」もの、あるいは近年の(読んでいないのだが)『老いのつぶやき』などのシリーズを書いていることの理由が少しわかった気がした。
『高く手を振る日』は一見、「老いらくの恋」の物語である。作家自身と等身大の年齢を持つ主人公嶺村浩平は七十代の老人で妻を亡くして独り暮らしをしている。物語は三人称叙述で、この浩平の視点で進む。決して女の側の心理がわからないような構造になっているのが叙述構造上のポイント。「少し先で行き止まりになってしまう」という感慨を抱き始めた浩平は、自らの若き日の秘密がそこにこめられた、合成繊維のトランクを取り出す。
大江健三郎であれば、トランクの中には「物語」の起源となるはずの文字が封入されているわけだが、黒井の場合トランクの中には一葉の写真というイメージが封入されている。それは大学時代のゼミの同窓生、瀬戸重子が白い中国服を着て映ったポートレイトである。
浩平は学生時代、後の妻となる芳枝と付き合っていた時、ふとした偶然から重子と雪の降る寺の境内で衝動的に抱き合い口づけをしたことがある。浩平は思い出の中から湧き出たようなその写真を見つめながら、何故か淡い感情をくすぐられる。その余韻さめやらぬうち、娘の旦那の関係で重子との半世紀ぶりの数奇な再会を果たす。浩平は重子に携帯電話の購入を勧められ、娘と購入したその機械を使って重子にメッセージを送り始める‥‥。
なるほど『高く手を振る日』のロマネスクは老いの状況下で進行する男鰥の浩平と重子との危うい均衡の上に成り立つ感情の振幅によって支えられているわけだが、その際に注目すべきはたとえば浩平の次のような視線である。
《昼前の空いた電車に乗り、優先席を故意に避けて七人掛けシートの若者の隣に腰を下ろしても、浩平の昂揚した気分はまだ続いていた。分厚いマンガ雑誌を読む男が車内にやたら多かった時期があるのを覚えているが、今は向いに坐る乗客のほとんどが手の中の携帯電話を覗き込み、滑るように指先を動かしているのが目にとまる。電車の中でどんなふうに電波が飛んでいるのかは見当もつかないが、自分には結局無縁であった携帯電話という器具が使いこなされている光景を、浩平はぼんやり眺め続けた。電話とはいってもそれを耳に当てて話す人は見られず、ひたすら掌の中に目を注ぎ指だけを動かし続ける無言の人々は、おそらく電報のような文字による交信を行っているのだろう、と想像するよりなかった。どこか不思議で、遠い鰯雲の間にいるような人々だった。》[40]
この「携帯電話」をめぐる浩平の違和について綴られた一節は、本書が「はじめて見るものをはじめて見るもののように書く」ことで成り立っていることを際立たせている。なんともあざといノンシャランス(この携帯電話への視線は、黒井がまさにそのように感じているところのものではないか)!「電報のような文字による交信を行っているのだろう」というこの一節の持つ「はじめて」感は、実は直後に開始される浩平の重子へのメッセージのやりとりの、その恋の萌芽の感情そのものの動きと響き合っている。
《〈おあいしたい げんきになったしげこさんに はやくあいたい〉/追い縋るようにボタンを押して彼はメールを送り返していた。手紙のやり取りや電話で話すのとは違い、自分の言葉が裸になって相手に駆け寄っていくのを感じた。面映ゆさや気後れを交信の新鮮さが払い落としてしまったかのようだった。/〈なるべく早く連絡します。ちょっと待って〉/重子の返事にも、これまでとは異なる音色が含まれているようだった。それが彼と同様にメールを使ったせいなのか、それとも彼女自身の気持ちの動きによるものか、見極めるのは難しい。/〈じっと まって います〉》[95]
「裸になって」駆け寄ろうとする七十代の男の感情をやんわりと制しながら、自らが決めた結末に向かって男を導いていく女のやりとりが、男の初めて手にした携帯電話の「メール」の文面をもって提出される。〈じっと まって います〉という文面にこめられた、男への作家の眼差しの冷酷さにも注意しておきたい。五十年前に剥き出しにはできなかったその時の重みをともなって、発せられるはずの無かった言葉が提出されるその「はじめて」の感触を、黒井は「はじめて」手にしたメディアによるやりとりを通して小説世界にあらしめるのである。
「はじめて」のものとして描かれるもの―鮭の赤い切り身(上司の老衰/痴呆)、葡萄の蔓(終わった恋の再会~発展)、庭に現れる二人の子供達、待ち合わせ場所に現れる重子の服の色―への驚きが、浩平と重子との言葉のやりとりの中で次第に充実し、膨張していく。
この小説の「老いらくの恋」の一つのクライマックスを見てみよう。
《「大丈夫だった?」
「何が?」
頬を寄せ合った重子の息が胸に柔らかかった。
「躓いただろう?」
「今、確かめたのではないの?」
「別のことをね」
「別の何を?」
浩平はソファーの上で身体をずらし、重子の肩を抱いたまま並んで背凭れに身を傾けた。
「俺達、今が初めてではないよ」
重子から応えはなく、どこか深いところに沈み込んでいくような気配だけが伝わって来た。
「ゼミの帰りが大雪の日、近道して抜けたお寺の境内のこと‥‥」
忘れている筈はないと思うのに、重子は微かに首を横に振ったようだった。
「あの時も、敷石の端を踏んだかして、倒れかかった」
「半世紀も前の話?」
肯定も否定もせずに重子は問い返した。
「流れた時間の量ではなくてね、折れた時間の切先みたいな、とんがりかもしれない」
「それなら、今も同じだわ」
「同じだね」
「ただ、振り返るところまでの、この先の月日がね」
「もう、振り返らなくてもいいのではないか。今だけあれば充分だよ」
「今はすぐ無くなるけどね」》[140-141]
ああ、そうか、と思う。この小説は「はじめてのものをはじめてのもののように書く」ことをしている、と書いたが、黒井が「老いらくの恋」を通して書いてみせたのは、「時間」のことであった。振り返ってみれば、切り取られた切っ先から生え始めた「葡萄」の枝も、ただ恋の行方の象徴だっただけでなく、この「時間」のテーマの一変奏であった。
浩平と重子が半世紀ぶりの再会で見てしまったものは、切り取られた時間の先にあった何かである。この何かを見た時、初めてこの老いた二人の男女は、自分達が積み重ねてきてしまった七十年の時の厚みを見せつけられる。七十代になっても「今だけあれば」と発してしまう男の認識を、重子は「今はすぐ無くなるけどね」とやんわりと制する。このやりとりの中に、老人ホームに入って別れを告げようとしている女の立ち位置と、追い縋ろうとする男の立ち位置とが刻み込まれている。
物語の結末は、典型的なオープンエンディングで閉じられる。一本の電話が鳴り響き、それは娘のものとも重子のものとも確定されない。男はゆっくりとそれに向かって歩いて行く。まるで、「はじめて」の何かの始まりにむかって歩いて行くように。
こうなるともはや、老いとかメールとか携帯とかは、ほとんどテーマですらないことが明らかになる。逆に言えば、黒井が「仕事」や「老い」をとりあげるのは、それが個別のテーマであるというよりは、「はじめて」のもののようにまなざされ象られる対象だったからなのである。
黒井千次は「内向の世代」に括られ、実際にその描写は各所で「ああ内向の世代だよなあ」と感慨を催させもするのだが、よく考えてみると「はじめてのものをはじめてのように書く」とは、リアリズム小説の一つの理念なのではないか。この小説を読みながら、『魔の山』のハンス・カストルプの幼少期の、祖父が取り出すあの銀の燭台の肌触りを思い出していたのはあながち奇矯な連想でもないのだろう。