無料ブログはココログ

« 斎藤悠樹 on Mcewan(前編) | トップページ | 丸谷徳嗣 on 越智博美『モダニズムの南部的瞬間』 »

2012年12月31日 (月)

斎藤悠樹 on Mcewan (後編)



Ian Mcewan
Sweet Tooth (London: Jonathan Cape, 2012)
Reviewed by 斎藤悠樹


2.「メタフィクションのリアリズム」

エドマンド・スペンサーの詩を題材に博士論文を執筆、いまではサセックス大学に講師の職を得ている、小説家志望のトム。MI5が目をつけたこのトム・ヘイリーという男には、どこか若いころのマキューアンを思わせる面影がある。彼の短編を支配する荒廃の風景は、「イアン・マカーブル」と呼ばれていたころマキューアンの作風に、奇妙なほど似かよっているのである。歪んだ愛情、ディストピア、性と暴力と過剰(実際、サセックス大学はマキューアンの母校である)。マキューアンの分身でもある、この小説家志望の若者に接触するために、セリーナはサセックス大学を訪れる。

「君の専攻はなんだったの?」
私は躊躇した。言葉が出てこなかった。こんなことを聞かれるとは思ってもいなかったし、突如として、数学専攻というのはなにか相応しくないような気がしてきた。それで思わず「英文学です」と言ってしまったのだ。
 やっと共通の話題が見つかったことに満足してしているようで、かれは愉快そうな笑みを浮かべた。「首席だったんじゃない?」
「いえ、二位でした。」なにを口にしているのか、自分でもよくわからなかった。三位というのは屈辱的なような気がしたし、主席といえば危ない橋を渡ることになるだろう。私はすでに二つの不必要な嘘をついてしまった。失態だ。(141)

もちろんそこは新人スパイ、失敗はつきものである。しかし彼女はこの窮地をなんとか凌ぎ切り、心理ゲームで攻勢に立つ。

「それで君はぼくの小説を読んでくれた?」
「もちろんです。」
「どう思った?」
「私はたんなる使い走りですから。私の意見なんて重要じゃありませんよ。」
「ぼくにとっては重要だよ。ねえ、どう思った?」
 室内の闇が深まったようだった。私は彼の頭越しに窓のほうを眺めやった。芝生を植えた区画があり、さらに別の棟の一角が視界に入ってくる。(中略)私はふたたび視線を彼のほうに向けた。また目が会ったので、力をこめた。なんともいえない暗緑色の瞳の色、子供のように長い睫毛、濃く黒いまゆ毛。彼の目には躊躇の色が浮かんでいた。こんどは形勢が逆転して、彼のほうが視線を反らそうとしていたのだ。
「ほんとうにブリリアントだったと思います。」私は声を落として、静かに言った。
 胸を突かれたように、いや、あたかも心そのものを突かれたかのようにして、彼はひるんだ。そして声にならない小さな喘ぎをもらした。彼は私のことをじっと見つめ、話の続きを待っていた。もっと自分のこと、自分の才能のことを語ってくれないかと。だけど私は我慢した。しゃべりすぎると、言葉の効果が薄まってしまう。それになにか深遠なことを口にできるという自信もなかった。私たち二人のあいだを隔てていた、どこか堅苦しい感じがすべて剥ぎとられ、目もそむけたくなるような秘密があからさまになっていた。私は彼のなかの飢えを明るみに出してしまったのだ。肯定への、賛辞への飢え。とにかく私が満たすことのできるもの全てへの飢え。彼にとってこれ以上に重要なことも無かったのだろう。彼の短編小説が書評で言及されることなど、皆無だったに違いない。ただ編集者がねぎらいの言葉をかけて、ポンと頭を叩いただけ。これまで誰一人として、彼の小説がブリリアントだなんて言わなかったはずだ。ましてや赤の他人からそう言われようとは、夢にも思わなかったに違いない。(142-3)

ここで展開されているのは、いかにもマキューアンらしい心理劇のサスペンスである。トム・ヘイリー(とかつてのイアン・マカーブル)によって描出された、性や暴力の氾濫するディストピアの幻想などと比べても、よりいっそうパーソナルで危険な感覚。マキューアンの本領が発揮されるのは、こういう正確な心理描写をつうじて、物語を後追いしていく読者の飢餓感そのものを煽りたてるときである。露骨に、かつ無慈悲に。期待という心の動きのはしたなさを暴き出すようにして。物語を欲するという人間の本能のレベルで、読者の胸の内がえぐられる。文体のスピードと物語の速度が一致して、読者を共犯関係へと駆りたてる。鼓動が高まり、ページを繰る手が震える。いわゆる「ナラティヴ・サディズム」である。

『スイート・トゥース』はすでに中盤に差しかかろうとしている。いくぶん煩雑とも思える伏線をへて、ようやくプロットがすべり出した。文体もキレを増している。あとはセリーナがスパイの身分を隠したまま、どうやってトムの心の襞のうちに潜りこんでいくのかを待つばかりだろうか?まだ初々しさを残してはいるものの、そこかしこに狡猾さの片鱗をみせる新米女スパイ、セリーナ。あらゆる廃墟趣味、絶望趣味、荒廃趣味にもかかわらず、根は純朴な大学講師、トム。このふたりのあいだの奇妙な恋愛劇が展開していき、やがて破局をむかえるのを待っていればいいのだろうか?マキューアンの熟練の筆さばきを信頼して、加速する物語のサスペンスに、ただただ身を委ねていればよいのだろうか?答えはイエスでもあり、ノーでもある。

というのも、残りのページを埋める恋愛劇もセリーナとトムの二人の肖像も、どこか書割めいていて、いまひとつ明確な輪郭を結んでこないからである。セリーナはあいかわらずMI5の庁舎でデスクワークに追われていて、週末になるとブライトンのホテルを訪れる。そこにはタイプライターを一心にたたくトムの姿があり、やがて彼の小説は「ジェーン・オースティン賞」にノミネートされるだろう。マスメディアの注目度に比例するようにして、セリーナに対しても疑惑の目が注がれるようになる。あまりにあっけない成功を前に、はじめはセリーナの無垢を信じていたトムの心にも一抹の疑念がよぎる。そしてついにすべての秘密が明らかにされ、破局の瞬間がやってくる。トムは行方をくらまし、わずかに残されたのは置き手紙だけ ―

こういう破滅の瞬間に向けて物語を加速させ、読者の心をひきずりこんでいくのはマキューアンのお手の物だったはずである。しかし小説は奇妙なまでに脱線をくりかえす。夥しい数の登場人物があらわれては、物語の前景をふさぐ。あまりに多くの伏線が入り乱れてくるせいで、読者の注意を削ぐ。そもそも肝心のセリーナとトムの肖像が一面的で、いっこうに正しい焦点を結んでこない。二人の言動は、愛が深まるにつれて、それこそ下手な恋愛小説のように芝居がかってくるのである。そしてトムが残した置き手紙が、これらすべての伏線と登場人物の謎に、いくぶん唐突な回答を与えることになる。

問題なのは、ぎこちないプロットの展開にしても、不必要に多い登場人物にしても、こういうすべての瑕疵が、おそらく意図的に準備されているところだ。マキューアンもトム・ヘイリーもあらかじめ知っている。セリーナがスパイの身分を隠していること、突然の文学賞の授与の裏にMI5の後押しがあったこと、いつしか作戦の全貌が明らかになるであろうことを。そしてなにより小説自身が、すべては架空のお芝居にすぎないことを知っている。要するに、これは物語を紡ぐという行為そのものをめぐる思索、もっと端的にいえば、いわゆるメタフィクションなのである。心理小説の息を呑むような切迫感と、メタフィクションの雲をつかむような抽象性が、微妙な均衡をたもつ。小説の最後に付されたトムの手紙は、急ぎ足ですべての伏線を回収し、あらゆる人物に然るべき位置を与え、そしてまた小説の冒頭に立ちもどる。女スパイの手記という体裁によって幕を開けたこの物語は、じつは最初から小説家トムの手によって書かれていたのだろうか…

唐突なメタフィクションの混入にニヤリとする読者にしても、肩すかしをくらった気分の読者にしても、思うところは同じだろう。『スイート・トゥ―ス』のマキューアンは結局のところ、なにをやりたかったのだろうか?読者の臓腑をえぐるような心理小説と、緻密なパズルのようなメタフィクション、そのどちらを目指していたのだろうか?小説の最後に付されたトムの置き手紙は、こういう疑問に対して、明快な答えを提出している。「両方とも」と。

それで数時間後、ブライトンの浜辺でぼくらは愛しあった ― 厳密にはホーブで。ラブと半分韻を踏んでるけど、あまりロマンテイックな響きじゃないね。(中略)警官が歩道を通りがかっていたら、公序良俗に反するということで、ぼくらを逮捕したかもしれない。でもぼくらのまわりに紡がれているこのパラレル・ワールドを、どうやって警官に説明すればいいだろう。一方の軌跡においては、ぼくらは互いを欺きあっている。ぼくにとっては初めての経験だけど、君のほうは慣れたものだろう。この欺瞞にはおそらく中毒性があって、そして致命的なほどに危うい。もう片方の軌跡のなかでは、恍惚をつうじて愛にいたる感情がたしかに存在する。ぼくたちはついに輝かしい絶頂に達して、愛の囁きを交わしているのだけれども、しかしお互い秘密を口にすることは決してない。うまくやれるはずだと思うよ。まるで目に浮かぶようだ、ふたつの密室はぴたりと隣接していて、しかし一方の部屋のねばつくような異臭がもう片方の部屋にまで侵入することは決してない。甘美な香りはそのままなんだ。(311)

手のこんだメタフィクションの紙細工を、背筋も凍るような冷たい戦慄によって、その隅々にいたるまでひたすこと。あるいは煙となって消えていくかのようなメタフィクションの奇術に、身を切るような痛みをおぼえること。心理的リアリズムの異臭とメタフィクションの芳香をいちどきに、しかし両者が混ざりあうことがないよう振り撒くこと。『スイート・トゥース』が試みているのは、こういう離れ業である。はたしてそれが成功しているかどうかはわからない。マキューアンは物語の架空性を強調しようとして、あえてぎこちない展開を選んだようでもある。ただいずれにしても、小説をめぐるもっとも本質的な問題を、熟練の軽い手つきでさばいてみせた作品であることは確かだ。メタフィクションなどと大仰な形容をするまでもなく、ここで問われているのは結局のところ、フィクションと感情移入の機制をめぐる謎そのものなのだから。小説の読者が、絵空事だとわかりきっている他人の人生に胸を痛めることできるのなぜなのか?そして、苦悶する心理の深淵をのぞいて戦慄を覚えたのも束の間、嬉々としてふたたび日常生活にもどっていくことができるのはどうしてなのか?『スイート・トゥ―ス』がつきつけているのは、こういう古くて新しい難問なのである。

ちなみに、ジョン・ファウルズの『フランス軍中尉の女』を読むよう、しきりに勧めてくるトムに対して、セリーナはこう答えている。「わたしはトリックは嫌い。ありのままの人生がページのうえに再現されているのが好きなの」(184)と。トムの反論はもちろん、トリックなしに再現される人生など存在しない、というものである。

« 斎藤悠樹 on Mcewan(前編) | トップページ | 丸谷徳嗣 on 越智博美『モダニズムの南部的瞬間』 »

書籍・雑誌」カテゴリの記事