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2012年12月24日 (月)

斎藤悠樹 on Mcewan(前編)



Ian Mcewan
Sweet Tooth (London: Jonathan Cape, 2012)
Reviewed by 斎藤悠樹


1.「地味な時代から帰ってきたスパイ」

気がつくといつの間にやら現代イギリスの国民作家となっていた感のあるイアン・マキューアン。近年では扱うテーマも地球温暖化であったり、アメリカ軍によるイラク攻撃前夜の外科医の一日であったりと、多かれ少なかれ現代社会へのコミットメントを意識したものが少なくない。しかし、最近のインタビューなど見ていると、そういう公的な期待を背負わされることに、マキューアン自身がいささか辟易してきているようで、マスメディアの喧騒を逃れ、ひとり静かに思索する時間がほしいとのこと。実際、単語を舌のうえで転がすような独特の話しぶり一つをとってみても、マキューアンはどこか変わったところのあるマイルド・エキセントリックで、最近の桂冠詩人などにありがちな、いかにも人あたりがよい「普通の人」とは、どことなく異なっている。

といっても完全な変わり者ではないあたりが、マキューアンの作家としての自己造形の巧みなところかもしれない。スター作家としての期待は決して裏切らない。しかし、キャリアのところどころ、絶妙なタイミングでいったん現代から距離をおいては、なんとも渋いところを狙ってくるのである。そんなマキューアンの「ちょっと変わったところ」のなかでも特に興味深いのは、彼が好んで「戦後」という時代を選び、たびたび物語の背景にすえてきたところだ。歴史小説というほどでもない昔、近い過去の物語である。

たとえば、今日のおおくの小説家がヴィクトリア朝にノスタルジアをいだく事情はよくわかる。いちども体験したことのない時代に懐旧の念を覚えるというのもまた妙な話だが、ノスタルジアは元々そういう心の動きで、喪失の錯覚をみずから作り出すことによって、自分のものでない時代におのずと接近することができるようになる ― 最初から持っていなかったものを失うという幻想をつうじて、決して手の届くはずがないものに手をのばす。そもそも喪失しえないものを喪失してみせることで、逆説的に所有の感覚をたぐりよせる。濃霧につつまれたロンドン、煤煙の底ににじむガス燈の灯、うっすらと照らしだされた赤煉瓦の建築、馬車馬の蹄鉄が石畳を打つ響き、今日ではヴィクトリア朝イングランドのすべてが柔らかな郷愁を誘うだろう。滑稽なまでに厳格で抑圧的なモラル・コードもまた、礼節の観念などきれいさっぱりと消え去った現代にあっては、かえって懐古の対象になっているのだから不思議なものである。

あるいは、マキューアンの『贖罪』の舞台となった戦間期。そこにはハイ・モダニズムの黄金時代があり、無限につづくかのような中産階級の安息に満ちた生活があり、これを脅かす共産主義とファシズムの台頭があり、そしてなによりも、やがてくるべき戦争と荒廃の予感がある。数世代に渡って受けつがれてきた中産階級の生活、その長く緩やかな持続が突如として断たれるさまは、小説の題材としては、やはり魅力的というほかない。

しかし現代を対象にする場合をのぞけば、マキューアンが好んで再訪する過去というのは、どういわけか「戦後」なのである。それも物語の背景としては、なんとも味気のない時点ばかり。おなじ「戦後」といっても、これが60年代後半、つまりロックン・ロールと性革命によってもたらされた祝祭の只中の物語であれば、まだそれなりの花やぎがあるし、現代へとつらなる話題も豊富である。マキューアン自身、こういう解放の時代の申し子であることを隠していない。なにしろデビュー当初のマキューアンは、性と暴力の過剰ばかりを書いて、「イアン・マカーブル」などと仇名されていたのだから。

だが『イノセント』の純朴で冴えない理系の青年といい、『オン・チェジルビーチ』の不器用な新婚カップルといい、マキューアンが愛惜をもってえがいてきた若者たちは、そんな解放がはじまる前の時代に生きていたのだった ― 前者は戦後すぐのベルリンに、後者は60年代初頭のイギリスに。社会は戦争のもたらした荒廃からいまだ完全には立ち直っておらず、冷戦の現実と核戦争の予兆が重くたちこめる。祝祭の時代はもうすぐそこまできているのだけれども、それは曲がり角のむこうのようなもので、歩道のうえからは見通すことができない。だから、マキューアンが好んで描く「戦後」は、高揚の予感そのものを退けた時代、どこまでも地味で陰鬱、くすんだ時代である。あらゆる意味での貧しさが時代を支配している。実際、この時期のイギリスの文学を代表する作家を列挙してみても、豪奢なラインナップとはとても言いがたい。おそらく、ただフィリップ・ラーキンだけが、こういう窮乏と空白の感覚を逆手にとって、喪失の手応えそのものを喪失したかのような、そして期待という心の動きそのものをこばむかのような、忘れがたい詩句の数々を生み出した。

マキューアンが「地味な戦後」にこだわっているのは、ひとつにはラーキンのこういう影響があるのかもしれない。ラーキンへの尊敬の念は、かれの言動の端々にうかがえる。しかしマキューアンの描く戦後は、ラーキンによる幻滅の(非)ヴィジョンとは、ずいぶん相貌を異にしているのも事実なのである。マキューアンにとっての戦後とはなによりも、精妙な心理劇の舞台であり、豪奢な時代の誘惑に気をとられることなく、ただひたすら登場人物の心の動きを丹念に追うことを可能にするような、透明な媒体なのである。だから、厳密にいうと、わざわざ過去に題材を求めた小説としては奇妙なことに、時代は「背景」ですらない。時代の雑音を遠ざけて、心理の動きを正確に追うために準備された、無色透明な時空間。それがマキューアンにとっての戦後なのである。

新作『スイート・トゥース』においてマキューアンが描出している光景もまた、そういう「地味な戦後」の系譜に連なるものである。主人公の女スパイが語り出すのは70年代のはじめ。この時代の生彩の無さは、祝祭のあとの疲労と脱力によるものだから、終戦直後のくすんだ雰囲気を想像するのとは、また勝手がちがうのかもしれない。しかし地味な時代背景が透明な媒体となって、登場人物の心理の動きをかえって精妙に伝えているという意味においては、そこにはやはり連続したものがあるように思われる。その証拠に、花やかな動乱の60年代は、この不器用な女スパイの回想のなかで冷ややかな一瞥を与えられるにすぎない。

60年代の後半はきらびやかだったけれども、私たちの生活を乱すほどではなかった。病欠でもないかぎり、一日たりとも学校を休んだりはしなかった。たしかに10代の後半にもなると、へヴィー・ペッティング(当時はそう呼ばれていた)に煙草、アルコールにほんのわずかばかりの大麻、それにロックン・ロールのレコードがあふれかえっていて、ときに庭にめぐらした塀を越えてくることもあった。もっと色鮮やかな色彩、よりいっそう情熱的な人間関係、こういうものが至るところにあった。17歳の私も友人も、みな臆病で陽気な反抗者だったのだ。結局のところ学校の課題はこなしていたし、動詞の不規則変化や方程式、国語の登場人物の心理なんかを、丸暗記してはまた忘れるという日々。自分たちのことを「悪い女」と思いたかったけれど、実際には私たちは優等生だった。(中略)18歳になるまで、奇妙なことも、恐ろしいことも、なにひとつ私の身に降りかかりはしなかった。そういうわけで、この時代はスキップ。(2)

アングリカンの牧師の娘として堅実な家庭で育ったセリーナ・フリュームにとって、祝祭の時代はたいした意味をもたない。そんな彼女の平凡な人生に転機が訪れるのは、ケンブリッジに入学した後のこと。セリーナは小さいころから寸暇を惜しんで小説を耽読していた、筋金入りの活字中毒だ。だから大学でも当然のように英文学を専攻するつもりだったのだが、母親の方針にしたがって、しぶしぶ数学科に籍をおく羽目になったのである。しかし、そこで恋人に出会い、さらに彼の指導教官であるトム・カニングに出会う。セリーナはこの老教授の愛人となる。しかしどういうわけか、カニン グ教授は唐突にセリーナを捨て、彼女の前から姿を消す。残されたのは、かつて諜報活動にも手を出していた彼の人脈のみ。このコネクションをつうじて、セリーナはMI5に就職することになるのである。

MI5のスパイといっても、ジョン・ル・カレのスパイ小説のような興奮を期待する読者は、肩すかしをくらうだろう。新入社員の彼女に任せられるのは、ごくありきたりの事務職となんら変わりのない、書類整理の雑務ばかりである。機密情報が回ってくるわけでもない。薄汚いオフィスに淀んだ空気、そして同僚とのあいだに生じる友情と軋轢。MI5のような諜報機関でなくとも、どんな職場にでもありそうな日常の光景だ。退屈しきったセリーナは、あいかわらず週に3、4冊のペースで小説を乱読する。読書へかける情熱が思いもかけない形で彼女のキャリアに影響することになるとは夢にも思わずに。

単調なオフィス生活は唐突に終わりをむかえるだろう。セリーナは、彼女の乱読癖を小耳にはさんだMI5の上層部から呼び出され、コード・ネーム「スイート・トゥ―ス」という作戦の遂行を命じられる。「スイート・トゥ―ス」は、MI5の反共プロパガンダに一役買ってくれそうな思想をもった作家に接触し、当の作家には作戦の詳細を伏せたまま、第三機関の基金をつうじて資金援助を行うという、いわばソフト・パワー外交の一貫である。セリーナが命じられたのは、トム・ヘイリーという作家に会いにいって基金の助成金を受けとるよう説得すること、そしてその後も適度な距離をたもちつつ、彼との接触を続けることだ。もちろん「スイート・トゥ―ス」は、MI5全体としてみれば大したことのない仕事であり、だからこそセリーナのような新入りに白羽の矢が立ったのだが、小説のプロットとしては、これがひとつの大きな山場になる。というのもセリーナはいつのまにか、ひょっとすると現実のトムに会う前から既に、かれを愛してしまっていたから ―

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