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2013年1月 5日 (土)

丸谷徳嗣 on 越智博美『モダニズムの南部的瞬間』



越智博美
『モダニズムの南部的瞬間 ― アメリカ南部詩人と冷戦』(研究社)
Reviewed by 丸谷徳嗣

はしがきの冒頭で言われているように、本書はおそらく一般的に了解されているような、おもに作品の分析・読解にかかわる類の批評・文学研究の本ではない。作品について議論しているのは第五章のみで、全体としてはいわば、批評の批評あるいはアメリカ文学研究の歴史研究といった体をなしている。

本書の内容はしたがって、このような場で紹介するにはいささかマニアック、というよりは、専門的にすぎるだろう。「アメリカ南部文学」や「新批評」なんていう用語は、ある程度文学のアカデミズムに詳しいひとじゃないと知らないだろうし、忌憚なく言えば、本書の議論もなんのおもしろみもないと思う。

だが、とりわけ戦後の日米関係という話題について考えるのであれば、本書の内容はそれほど遠い世界のものではないはずだ。「一九六〇年代に生まれ、『赤毛のアン』と『風と共に去りぬ』を母から勧められて読み、英文学科にはいった…紛れもなく『戦後』が育てた娘の世代である」(iv頁)という著者にとって、「リベラリズム」というイデオロギーの変容を後追いすることは、自身の立場を今一度確認するということを意味している。この事情が、「アメリカ南部文学」と「新批評」の戦前から冷戦期にかけての歩み――二〇年代にはアメリカ全体のリベラリズムに対する反動主義者であったアレン・テイトが、五〇年代には「アメリカ」という国の代表と目されることになる――のなかに浮かび上がるというのである。

著者にとっての問題は、八〇年代に起こった批評のパラダイム・シフトと、現在のネオ・リベラリズムに対する危惧であるという。著者が馴れ親しんでいた文学の「キャノン」は八〇年代にその自明性を失い、「文学研究」は既存の「文学史」の政治性と抑圧性を暴く方向に向かった。ニュー・アメリカリズムと同様、著者も文学作品に潜む抑圧の衣をはぎとるところから出発してはいるし、議論の批評的枠組みは主にジェンダーにまつわるものであるが、最終的にはすでに述べたように、文学研究にみるリベラリズムの系譜学であり、アメリカ文学史の歴史である。

だからもちろん、本書の議論は文学と政治、あるいは文学の政治性についてのものなのだが、不思議なのは、なんというか、著者自身の「主張」があまり聞こえてこないというところだ。ニュー・アメリカニズムもそうだし、フェミニズム批評や人種批評なんかはいうまでもないが、「抑圧」に対する「告発」がなされるときに文学作品が便利なのは、物語には(あるいはもっと根本的に「言葉」には、と言ってもいいのだと思うのだが)、「抑圧」がつきものだからである。なにかが語られたということはほかのおびただしいなにかが語られなかったということなのであり、「物語」とはそのようにしてしか成り立たない。そして、「系譜」や「歴史」を整理するというのも「物語」化するということにほかならず、くだけた言い方をするなら、どんなに主観や恣意性を排除しようとがんばったところで「抑圧」を避けることなど誰にもできないのだ。これが、今日の批評のきわめて常識的な認識である。

だから、「歴史」にももちろん、その歴史を語るひとの「意図」があるはずで、そこが言ってみればつつきどころなのだけれど、本書にはそれがあんまり見えてこないのだ。おそらくこれは、本書の結びの言葉からも明らかなように、著者が研究者としてアカデミズムという制度を信頼しているからなのだろう。きみね、研究者ならばそんなことは当たり前なのだよ、とお叱りの声がとんできそうだが、これは「努力」うんぬんのレベルの問題ではなくて、たぶん性格の問題だ。もっとわかりやすく階級化するために、「質」の問題だと言ってもいいかもしれない。

「アカデミズム」の側からみれば、制度を「信頼」できるひとが優秀なのであって、それができないひとはダメ、ということに、もちろんなるだろう。「制度の研究をするものが制度の枠のなかから出ることはない」――これは妥協や諦念ではなく、著者の礎となっている覚悟であり信念である。「そこで言葉を発信することに希望を見出し」、「言説の配置が揺らぎ、少しずつ変わっていく」ことに期待をかける(296頁)という著者の言葉は、「文学」の宣言ではなく、「アカデミズム」や「批評」のそれなのだ。だからこそ、本書はやはり立派な研究の成果なのである。

おもにはしがきやあとがきに書かれている著者の態度という外枠について紹介してきたが、単純におもしろいかどうかは別として、筆者のようなアメリカ文学を専門とする学生にとっては、本書は大いに勉強になる内容であると同時に、資料を「めくり倒す」という「愚直な作業」(vii頁)の偉大さを、これでもかというほどまざまざと見せつけられるものであった。と同時に、やっぱりこういう「仕事」は、「デキる」ひとにやってもらって、自分は作品ばかり読んでのんびりしていたいな、などと思ってしまう自分に嫌気のひとつもさしてしまうのだが、それはまた別の話である。

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