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2013年3月 5日 (火)

斎藤悠樹 on Julian Barnes, _Through the Window_



Julian Barnes
Through the Window: Seventeen Essays (and One Short Story) (London: Vintage Books, 2012)
Reviewed by 斎藤悠樹

「ジュリアン・バーンズは窓ごしに」

文芸批評のたぐいを読んでいると、こんな一節に出会うことがある。曰く、「Kの本来の資質は詩にあった。しかし抒情詩のじゅうぶんな蓄積を欠いた近代日本では、作家はとにもかくにも小説というジャンルにうったえざるをえない。それゆえ、彼の残した作品を小説として読むと、ある歯がゆさが残るのも事実なのである。たしかに描写は美しいが、美醜をこえた人間の業を書けていない。思わずハッとするような洞察がそこかしこに散りばめられてはいるけれども、あくまで断片的な身辺雑記にとどまっており、これらが緊密な物語へと編みこまれ、普遍的なひろがりを獲得するにはいたらない。しかしこういうすべての瑕疵もかかわらず、あるいはそれ故に、Kの文章はそこかしこに意想外の抒情の香をふくんで、思いもよらない詩情の一撃でもって、ふと、読者の心を揺さぶるのである。だがやはり、…」云々。

わかったようなわからないような批評だが、ようするに、近代日本ではジャンルとしての小説の存在感があまりに圧倒的であったがゆえに(そして詩というジャンルが不当に軽視されたがゆえに)、その本領が長編小説以外のところにあったはずの文人もまた、小説という土俵で勝負せざるをえなかったということだろう。しかし、こういう「ジャンルを誤った文人」や「余技のほうがおもしろい小説家」というのは、古今東西、つねに一定数いたのではないかという気もする。近代日本、そしてとくに小説と詩の関係に話をかぎらずとも、ある種の典型なのである。ひょっとしたら偏見かもしれないけれど、現代英文学ということでいうと、筆者にとっては、本エッセイ集『窓ごしに』のジュリアン・バーンズがそんな小説家の代表格だ。

『フローベールの鸚鵡』によって鮮烈なインパクトを残し、その後もコンスタントに佳作を発表、一作年には『終わりの感覚』でマン・ブッカー賞までとってしまって、すっかり現代イギリスを代表する小説家として地歩を固めた感のあるジュリアン・バーンズ。確かにかれの小説世界はじつにたくみに構築されている。知性の粋をこらした綿密なプロット、緻密な構成のすきまを通してそっと洩れ出すひかえめな感情のニュアンス、正確かつ繊細な文体をささえる強靭な精神力、どれをとってもまるで隙がない。しかしあまりに隙がないのが唯一の欠点というか、ジュリアン・バーンズの精緻をきわめた作品を読んでいると、そういう「隙」さえも意図的にしかけられたものであるような気がしてしまうから、小説というのは難しいものである。いいかえれば、かれの長編小説はあまりに見通しがよすぎて、読者が、そして作者本人が、瞑きより瞑きに踏み迷うかのごとき、そういう危うい感覚に乏しい。曰くいいがたい衝動の横溢にドライヴされ、行きつく先もわからないまま憑かれたように語りだしてしまうという、あの長編小説に特有のモメンタムと無縁なのである。ただ、ジュリアン・バーンズは透徹した自己認識の人だから、そんなことは百も承知。ペネロペ・フィッツジェラルドの小説の「踏み外した感じ」(‘wrong-footed’、辞書的には「不意打ち」)を讃えた冒頭のエッセイの一節など、こういう機微をすっきりと説明して、じつに的確である。

小説というのは都市のようなものである。ある種の小説は、交通機関の路線図が明快な色使いで塗り分けられるさまにも似て、明晰に構築され、展開されていく。電車がひとつ先の駅に到着するようにして、各章が進行する。そして最終的には、すべての登場人物がテーマの終着駅にいたるまで首尾よく運ばれていくのである。さらに巧妙で、より賢明な小説というのは、こういう瞬時に読みとることのできるルート・マップをあたえてくれない。読者は街を旅行するのではなく、街のただなかに放りこまれる。あるいは、生そのもののただなかに。道のりは読者が自分で開拓しなくてはいけないのである。こちらの小説は、人間関係という「融資や負債、払戻しに差押さえ」からなる隠微なネットワークにもとづいているので、その構造も様式もすぐには見えてこない。こういう小説が機械的に動いていくというわけでもない。生そのもののように迷い、立ち止まっては、またふらつきながら進む。その実、壮大な様式や隠された構造があるのだが。(13)

ジュリアン・バーンズはここで、ペネロペ・フィッツジェラルドの「地図のない小説」を称賛しつつも、同時に、あたかもシンプルに色分けされた路線図のように明晰なみずからの才能に対して、ひそかに不満を吐露しているのではないかと考えたら、邪推がすぎるだろうか。しかし、小説を都市にたとえ、読者を街中を縫ってはしる電車の乗客に見立てた、この認識と文彩じたいブリリアントなものであり、ここまできれいに腑分けし、表現できてしてしまうのは、やはり頭のなかに明快な「路線図」が描かれているからではないだろうか ― そんな思いが、つい、脳裏をよぎるのだった。

そもそも、剥きだしの感情を文章にぶつけ、あるいは呪詛のように言葉を垂れ流し、あるいはあざといレトリックで物語への飢餓感をあおりたて、読者の興味をながいあいだ釘づけにしておくには、ジュリアン・バーンズの筆致はあまりにも上品なのである。そこに執着や情念がないわけではない。しかし本書の例によって卓抜なタイトルをかりるならば、そういう剥きだしの感情はすべて「窓ごしに」みつめられる ― 語り手は内に秘めたものの存在を仄めかしはするけれども、その内奥の核の部分は明かさない。読者のほうに僅かに歩みよってそっとその心を揺さぶるけれども、むりやり小説世界に引きずりこむような手荒な真似はしない。「生そのもの」とのあいだに窓ガラスを一枚はさんだかのような控えめな距離感は、それじたい、決して悪いものではない。これがジュリアン・バーンズの小説家としての選択であって、かれはそうやってプロの作家として生きのこり、一流になったのだから。筆者なども、ジュリアン・バーンズのあっさりとした味わいの筆致に、つい惹かれてしまうクチである。しかしこれが長編小説となるとどうだろうか?

たとえば、数年前の『アーサ&ジョージ』など、アーサー・コナン・ドイルとジョージ・エダルジという対照的な二人の人生の軌跡がふとしたきっかけで密接に絡みあい、そしてまた呆気なく離れていくさまを描いて、ほんとうに素晴らしかった。デュアル・バイオグラフィのような筋立ても心にくい。物語の末尾、ジョージはアルバート・ホールを訪れ、スピリチュアリズムの関係者が主催する降霊会(セアンス)に参加する。法律家であり根っからの事務屋のジョージは、巫女が呼び出したというアーサーの霊なる存在には懐疑的なのだが、これをきっかけに、アーサーの情熱と確信にみちた言動を久方ぶりに想起することになる。そして翻ってはみずからの受け身の人生に思いをはせ、ある空疎な感慨をおぼえるにいたるのである。

周囲の観客がはけると、かれは再びかがみここんで望遠鏡を手にとり、メガネに押し当てた。そうして、もういちど演壇のうえに焦点をあてた。紫陽花の山に、空席の列に、そしてとりわけ、厚紙のプラカードを備えつけたあの無人の席に。もしかしたらサー・アーサーの霊が降臨していたかもしれない場所だ。ジョージの視線は幾重にもかさなるレンズを通してみつめていた。虚空を、そのさらに向こうを。かれはなにを見ているのだろう。なにを見たというのだろう。そしてこれから先、なにを見るのだろう。 (Arthur & George, Vintage Books, 2005, 356-7)

何枚ものレンズをすかして凝視された空席。「生そのもののただなか」にある人間模様ではなくて、あくまで遠まきに見出された不在の光景。上に引いた小説論とはうらはらに、生の充足から僅かにへだてられて、ガラスごしにその余韻にひたるかのような距離の感覚を描くときにこそ、ジュリアン・バーンズの筆は冴えわたる。極言すれば、『アーサー&ジョージ』は、この「窓ごしに」みつめられた生の感触を定着するだけのために書かれたといっても過言ではない。ただ、ここまでたどりつくのに小説は350頁、ペーパーバック版にするとじつに500頁を費やしている(装丁が凝っているので、つい、両方とも買ってしまったのです)。二人の人生がこれほど分厚い長編小説として描かれなければならない必然性があったのかどうかと考えると、一抹の疑問がのこったのも事実で、こういう空虚な感じを書きつけるには、かれの場合、長い物語よりも随想風の断片的なスケッチのほうがいいような気がしたのだった。

というわけで、ここまでくると完全に好みの問題ではあるけれども、筆者はかれの長編よりも中編が、中編よりも短編が、短編よりもエッセイが好きである。そこに「物語」という意味でのプロットはないかもしれない。しかしジュリアン・バーンズの随想には、「たくらみ」というもう一つの意味でのプロットがそこかしこに張りめぐらされていて、緻密な構成と該博な知識、そして小気味よい文体でもって、十二分に読者を楽しませてくれるのでる。

そもそも、小難しいことを考えなければ、出世作の『フローベールの鸚鵡』からして、素朴な意味での小説というよりも、たくみに構成されたエッセイ集のようであった。エンマ・ボヴァリーの瞳の色が茶色であったり、漆黒であったり、ときには碧眼とまで書かれていて、まるで一貫していないことを指摘、この事実をもって、フローベールの描写に難癖をつけたオックスフォードの仏文教授。語り手(というよりこの場合は、ジュリアン・バーンズその人と言ってよいだろう)は、エンマの瞳の色の変化に気づかなかったことを悔い、微かな嫉妬をにじませながらも、「この世にパーフェクトな読者、トータルな読者など存在するだろうか?」と問う。すべての細部を記憶せんとするような読書は、実のところかぎりなく労働にひとしいのではないだろうか?市居の読者はむしろ「忘れる」という特権に恵まれているのではないだろうか?そしてこの仏文学者のことを「記憶に呪われている」といって揶揄するのである。明晰な論理展開と衒学趣味で煙幕をはりつつも、そのうしろで嫉妬から矜持へと微かに心情が揺れうごいていくこのくだりが筆者は好きで、飽かずになんども読みかえしたものだった。妙な言い方なのだが、ジュリアン・バーンズがこうやってエッセイ風に文章を展開するとき、その筆致は、かれの「小説らしい小説」よりも小説的なものとなってくるのである。日本風に私小説的な瞬間というべきかもしれない。ジュリアン・バーンズというと、一般的には明晰な知性のキレで勝負する作家だとみなされていて、実際、「私」が前面に出てくることは少ないのだが、じつは意外とプライヴェートな感情に生きる人なのではないだろうか ― 激情のうねりではなくて、ふとしたはずみの心の揺れに。

閑話休題、本書にもどろう。『窓ごしに』にエッセイとしておさめられた文章はほとんどすべて作家論であり、英米仏の古今の作家が縦横に論じられている。アーサー・クラフ、ジョージ・オーウェル、フォード・マドックス・フォード、フェリックス・フェネオン、ウェルベック、イーディス・ウォートン、カミュ、メリメ、ジョン・アップダイク。フランスで書かれたキップリングのモデル小説を英国人の視点から論じるというような、ひねくれたフランコ・フィルぶりが健在なのも嬉しいし、ヘミングウェイを辛くも讃える一文を草して、これを苦い短編小説に仕立ててしまったのもおもしろい。タイトルもいちいち気が利いている。とくにジョンソン博士から拝借した「悲しみを制御する」(‘Regulating Sorrow’)というのは、抜群ですね。しかし読み応えがあるのはやはり、じっさいに親交というか、接触のあった作家についてのエッセイだ。私小説的な瞬間をかいま見ることができるのも、こういう同時代人についてのエッセイのなかにおいてなのである。たとえば数年前に他界したアップダイクを追悼する文章。

アップダイクの世界はしばしば皮相で安寧に堕した場所のようにみえる。白人男性の、もっぱら中流階級からなる郊外の、家と家族と子供とゴルフと酒の世界。そしてもちろん不倫も ― ナボコフの言葉をかりれば、凡庸をこえるためのもっとも凡庸な方法だ。しかし、男くさい勇猛果敢さの賛美者とおもわれているヘミングウェイが、臆病というものについて書いてもっとも巧みであるように、いつまでも続くかのような平々凡々たるアメリカを描いたアップダイクもまた、絶えず逃亡について書いているのである(中略)これがアップダイクの登場人物の背後にあるパラドクスだ ― どこか遠くへ、しかし安全に。(202)

こうやって、あくまで小説のなかにおける逃亡への憧憬と躊躇を論じていたはずのジュリアン・バーンズだが、文章はいつしか重心をうつす。話題はいつの間にかアップダイクの実人生そのものに横すべりしていき、気がつけば、「死」という最後の逃亡先に向けてためらいつつも走り去っていったアップダイクへの痛切な追悼文となっているのである。息づまるような郊外の閉塞感から逃げ出そうとしてかなわなかった、あのラビットの姿が喚起され、やがていつしかアップダイクその人の面影に重ねあわせられる。見事な構成力というほかない。こういうさりげないトランジションの妙技こそが、かれのエッセイの最大の美徳である。

しかし本書の白眉はやはり、上にも引いた、ペネロペ・フィッツジェラルドを論じる冒頭の章だろう。あるシンポで同席したおり、ジュリアン・バーンズは敬愛するこの老作家のもとに近寄っていって、直筆のサインをお願いする。

コーヒーを飲みながら、お気に入りの二冊にサインを頼んだ。『春のはじまり』と『青い花』だ。女史はその日の持ち物をつめこんだプラスチック製の買い物袋 ― 紫地に花柄がついていたように記憶している ― をしばらく探しまわっておられた。ようやく万年筆が見つかり、ながいながい沈思黙考があった後、女史は年少の小説家にむけて励ましの念をこめ、私的なメッセージを本の扉にしたためてくれたのである ― そのようにみえたし、私自身、そう期待していた。私はサインを見ることなく本をしまった。 イベントはそのまま進行。終了後、私たちはヨーク駅まで車で送ってもらい、ロンドンまで電車で一緒にもどることになる。(中略)キングズ・クロス駅に着くと、ふたりでタクシーに乗りましょう、と声をかけた。私たちはロンドン北部のおなじ地域に住んでいたのだ。「いえいえ結構ですよ」という答え。「地下鉄に乗ります。なんといってもロンドン市長が素晴らしい無料パスをくださいましたからね。」(女史がこう言うと、無料パスがすべての年金生活者に支給されているのではなくて、まるで個人的な贈り物として受けとられたかのようだった)(中略)タクシーに乗るよう説得したが、無駄だった。地下鉄を使うとあらかじめ決めていたのだった。それなら仕方ない。それで私は駅構内までおともし、そばで待っていた。女史は無料パスを探して、あの混乱をきわめた買い袋の中をガサゴソやっておられたのである。「ここかしら。やっぱり。あら、違ったわ。」私はこの時点でちょっと苛々してきていたので ― それが顔に出てしまったのかもしれない ― 、女史を券売機のところにまで連れていって切符を買い、エスカレーターで一緒にノーザン線の乗り場まで降りた。電車を待っていると、女史はふいにこちらを向き、優しくいたわるような表情で、こう言う。「ああ、ごめんなさい。なにか低俗な乗り物にあなたを連れこんでしまったみたいね。」帰宅しても笑いが止まらない。そして、あれだけ長い時間をかけて練られたサインを読もうとして、本を開いたのだった。『春のはじまり』には「幸運を祈って、ペネロペ・フィッツジェラルドより」。『青い花』のほう ―こちらを書く際にはさらに長いあいだ思案しておられた ― にはこう書かれていた。「幸運を祈って、ペネロペより」(1-3)

ペネロペ・フィッツジェラルドの素っ気ないサインのくだりは、もちろん可笑しい。しかしそれ以上に、年金生活者に万遍なく配布される無料パスを「まるで個人的な贈り物であるかのように」にぎりしめて地下鉄に乗りこむ老作家、というジュリアン・バーンズの観察眼が絶妙である。58歳にして処女作を出版したという、この遅咲きの女流作家の小説を読んだことはないけれども、万事につけ抑制的でありながら、あくまで頑固、そしてどこかエキセントリックな老婦人のたたずまいが目に浮かぶようだ。こういうちょっとした、しかし本質的なエピソードがあるからこそ、「路線図のない小説」云々という抽象的な文学論も生きてくる。電車のメタファーにもしっかりと伏線が張られていたわけである。これぞジュリアン・バーンズの随筆の至芸。イギリスの作家はいちど名声を確立すると、雑文を書くのをやめて小説に専念する傾向が繁くみられるが、ジュリアン・バーンズにはこの調子でエッセイを書き続けてほしい。日常生活とそこに生まれる文学を「窓ごしに」みつめ続けていてほしい。そんな我儘な期待もふくらむ一冊である。

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